主の降誕の喜びのうちに

~イエズス会社会正義と環境事務局設立50周年を迎えて~

梶山 義夫 SJ
イエズス会社会司牧センター所長

「いろんな登場人物を見ること。まず、服装と動作の様子が非常に異なる地上の人々を見る。その中には白人もいれば黒人もいる。ある人は平和のうちに、ある人は戦争のさ中におり、ある人は泣き、ある人は笑っている。健康な人もいれば、病人もいる。生まれたばかりの者もおれば、死にかかっている者もいる。そのような様子を見る。第二には、自分の王座、主なる神のみ座についておられる三位一体を見る。三つのペルソナが、地球の全面と、ひどい盲目に陥ったすべての民を見られ、彼らが死んで、地獄に落ちていく有様を御覧になると考察する。・・・地上の人々が話している言葉を聞くこと。すなわち、彼ら互いの話、また呪いや冒とくなどの言葉を聞く。同じように、神の三つのペルソナが語り合っておられること、すなわち、『人間をあがなおう』などの言葉を聞く。・・・人々が地上で行っていることを見る。たとえば、人を傷つけたり殺したりして地獄に落ちていくなどを見る。その後、神の三つのペルソナが行われる業、すなわち、受肉を実行されることなどを見る。」

聖イグナチオ『霊操』106~108

年ごとに巡り来る待降節と降誕節にしばしば思い起こす、『霊操』の言葉である。今年は11月初めからこの言葉をよく思いめぐらすようになった。11月4日から8日までローマ本部で、「イエズス会社会正義と環境事務局」設立50年記念の集会が開かれた。その集会の根底に流れていた霊性の原点は、『霊操』のこの箇所であり、またこの50年間のイエズス会の社会使徒職の根底に流れていた霊性の原点もこの箇所である。さらに今からの私たちの祈りと活動の原点となるのも、この箇所である。この50年の歴史の歩みの一コマ一コマに、人は何を見ているのか、何を聞いているのか、何に触れているのか、何を味わっているのか、何を嗅いでいるのか。その五感に基づいて、人はどのような思いを抱き、何をしているのか。そのような人の五感や思いを、神は自らの五感でもってどのように感じ受け止め、どのような思いを抱き、どのような業をしているのか。この神の感性と思い、そして業が私たちに迫ってくる、これが私たちの使徒職の出発点である。

御父は御子を派遣する。主の降誕である。この世に生まれ、神の国のために生き抜き、十字架につけられ、三日目に復活させられたイエスは、この世に教会を派遣し、また自らの名を担う修道会を創立し、その会員と多くの協働者を派遣する。御子の派遣、そして教会と私たちの派遣の意図は、地上、そして一人ひとりを見守り導こうとする神の感性と思いであり、すべての人を大切にしつつ、貧しい人や苦しんでいる人、抑圧された人や差別を受けている人と共に貧しく、苦しみ、抑圧され、差別を受けて、その人たちを優先的に慈しむ神の正義である。

私たちはその派遣に誠実に応えて来たのだろうか。1973年、当時の総長ペドロ・アルペ神父はバレンシアで「私たちはそうしてこなかった」と答えた。今はどうだろうか。今回の集会で、私たちはこの50年間に正義のために殉教した人々を思い起こした。配布された冊子Jesuit “martyrs” Torches of light and hopeには、チャドで難民や貧しい病人を助けていて、1973年12月 1日、36歳の時にEl Gueraで射殺されたAlfredo Perez Lobato神父を筆頭に、1989年11月16日に軍人によって殺害されたエルサルバドルの殉教者たちなど57人が紹介されている。その中には、1996年10月17日にカンボジアで生徒を守るために手りゅう弾の犠牲となった26歳のRichard M. Fernando神学生、1999年9月に東ティモールで殺害された34歳のTarcisius Dewanto神父や70歳のKarl Albrecht神父など、私も親しくしていた会員も記されている。57人の会員だけではなく、多くの協力者も命を捧げた。また数知れぬ生きている殉教者たちのことも心に留めなければならない。


ソーサ総長は初日、「世界に和解をもたらす道を、人々と共にイエスに従って歩む」と題する講話を行った。その冒頭、第二バチカン公会議からの新鮮な風、ペドロ・アルペ神父の貢献、32総会第4教令『今日におけるわたしたちの使命 信仰への奉仕と正義の促進』などを取り上げ、神に感謝を捧げた。また1550年のイエズス会基本精神綱要の「本会が特に設立されたのは、信仰の擁護と宣布、またキリスト教的な生活と教義において霊魂が進歩することを心がけるためである」を引用し、ナザレのイエスの弟子また同伴者として今日この目的を達成するには、イエスのように、この世の罪によって十字架につけられた人間性を身にまとい、人間存在を圧迫したり環境を乱用したりする原因を克服することに貢献しなければならないと説いた。

総長はまた、今後の社会使徒職の在り方として、10項目を振り返りのポイントとして挙げた。

  1. 社会正義と環境に従事することによって、神に近づき、また神への道を指し示しているのか。
  2. 真の使命は歴史に働きかける聖霊による招きである。私たちはどれくらい個人的にも組織としても使命について識別しているのか。
  3. 自分たちの活動において、本会の他分野との協働はどの程度必要な要素となっているのか。すべての人々の間で、兄弟姉妹として水平的な関係をどの程度構築しているのか。
  4. 女性は、本会の社会使徒職事業体において、識別と意思決定にどのような役割を果たしているのか。女性を疎外する世界と、女性のキリスト者共同体のリーダーシップや共同責任を認めたがらない教会を変革することは、優先課題ではないのか。
  5. 神の国の成長のために、社会使徒職内で、また本会の他の使徒職や他の組織と共に、ネットワークの中でどれくらい働いているのか。
  6. 貧しい人々と身近に生きることは、ナザレのイエスが切りひらいた贖いの道の根本的側面である。どれくらい貧しい人々や排除された人々の身近に生きているのか。どれくらい貧しい人々の身近に生きることに基づいて、世界を見たり、現実を感じ取ったりしているのか。
  7. 本会は創立当初から霊的な深み、貧しい人と身近に生きること、人間に関する知的理解が重視されてきた。活動内容を選ぶ識別には、知的深さが必要である。複雑なグローバル世界において社会的活動を遂行するために、振り返りと研究をしているのか。
  8. 社会使徒職の計画立案に、最も排除された人々(移民、女性、若者、傷つけられやすい立場の人々)が参加しているのか。この人々は、私たちの使命の対象に過ぎないのではないか。それとも解放のプロセスにおけるリーダーシップを持つ主体として受け入れているのか。
  9. 人々に直接奉仕することを超えて、人々を排除する社会構造を変革し、より大きくより普遍的な善を生み出すためのアドボカシー・プロセスを開発しているのか。
  10. 教会内外の虐待を根絶することに貢献することは、社会の不正な構造を変革させるために必要である。本会の組織や教会、また社会的活動組織のネット全体で、性虐待や権力乱用に対してどれくらい強い感受性を持っているのか。すべての形態の虐待を調査し、責任を取り、避けるための方針を形成しているのか。社会正義を求める闘いの中で、セーフガードの文化をどのように促進しているのか。

集会のさまざまな場面で、σύν(共に)とὁδός(道)を合成した言葉であるsynodとかsynodalityという言葉を耳にした。共に歩んでいこう、これも、今回の集会を貫いていた主題であった。共に歩んでいこうと呼びかけるのは誰か。総長とか、イエズス会員ではない。それは神ご自身である。神ご自身が、会員であるかを問わず、イエスの道を一緒に歩むように招いている。その原風景は、幼子イエスとイエスを囲む人々である。

「恐れることはない。・・・あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」との呼びかけに、「私は主の仕え女です。お言葉通り、この身になりますように」と答えて、イエスと共に歩み始めたマリア(ルカ1章)。「恐れずマリアを妻に迎えなさい」との呼びかけに答えて、マリアを妻に迎えたヨセフ(マタイ1章)。「恐れるな。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」との呼びかけに、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と答えた羊飼いたち(ルカ2章)。東方で見た星に従って進み、幼子に贈り物を捧げた東方の占星術学者たち(マタイ2章)。マリアやヨセフがイエスと共に人生の小路を歩むように招かれたように、また羊飼いや占星術学者が幼子イエスに出会うように招かれたように、私たちもさまざまな人々と共にイエスに出会い、共に人生の小路を歩むように招かれている。

幼子イエス、マリアとヨセフは恵みあふれる人々と言われるが、実際には宿屋や客間から、つまりベツレヘムの人々から排除されてしまう(ルカ2章)。またこの三人はエジプトに難民として逃れなければならなくなる。さらにイエスの誕生のゆえにベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子が一人残らず殺されてしまう(マタイ2章)。イエスと共に歩むように招かれている人々にも、同じように厳しい現実が待ち受けている。

何かと怖気づいてしまう私たちにも、マリアやヨセフに「恐れることはない」と語りかけた方が、今年もまた、主イエスと共に歩み、主イエスと共に成長するように招いている。

ソウル集会「東アジアの和解と平和の道を問う」に参加して

松浦 由佳子
プロテスタント教会信徒

2019年9月26日(木)~27日(金)の2日間、中井淳神父様はじめ13名の日本からの参加者の方とともに、ソウル集会に参加させていただきました。両国政府の関係が冷え込む中で、日韓関係の改善を願い、祈り、行動する両国のお仲間に混ぜていただいたことを心から感謝し、その概要と感想をお分かちいたします。

シンポジウムの概要

この集いは昨年、名古屋で「東アジアの和解と平和ネットワーク」として初めて開催され、それを受けて今年はソウルで開始されることになったと伺いました。それもあり、初日のシンポジウム会場のイエズス会センターは再会を喜ぶ和やかな雰囲気に満ち、友情が育まれてきたことが初参加の私にも感じられました。韓国からは聖職者、研究者、信徒50名ほどが参加し、韓日の平和への思いや取り組みがエネルギッシュに分かち合われました。講演・発題はすべて日韓両語で一冊にまとめて配布され、同時通訳もあり、主催者のきめ細やかな配慮のおかげでよく理解することができました。

密度の濃いプログラムで、午前中には議政府(ウィジョンブ)教区長イ・ギホン司教様による基調演説「キリスト者に与えられた和解の使命」と、カトリック東北アジア平和研究所ビョン・ジンフン研究委員長の基調発題「東アジアの和解と平和のための韓日キリスト者の平和使徒職」がありました。午後は和解と平和に向けた取り組みを紹介する3つの発題があり、日本からはSr.古屋敷一葉さん(広島教区平和の使徒推進本部、援助修道会)から「韓日歴史問題に関するカトリック教会の立場――日本司教団のメッセージを中心に」、イエズス会社会司牧センターの柳川朋毅さんから「日本のカトリック青年が眺めた日韓の歴史と平和:イエズス会平和青年プロジェクトへの参加を分かち合う」がありました。韓国からはパク・ユミさんの「脱核平和のための韓日カトリック教会の交流と連携」の報告があり、それぞれの発題に対する質疑応答がありました。その後、小グループで「平和の使徒」としての各人の行動プランの分かち合いがあり、最後に「韓日キリスト者平和宣言」が決議されました。「キリストの平和」をなす「神様の道具」となること、神以外のいかなる力の作用も排除し、平和使徒職として目指す霊性とその源泉である「無からの創造」を目指し、韓日のカトリック信徒、そして世界の隣人たちと連帯して主にある平和の道の模索を志向する、という内容の宣言です。

  講話・発題の内容はシンポジウムの冊子をご覧いただくとして、特に私の思いが向かったのは謝罪をめぐる国と教会の働きでした。「和解には謝罪が先行する必要がある」、「謝罪がなければ被害者が置いてきぼりになる」といった声が、特にビョン・ジンフン研究委員長の講演に対して多く寄せられたと理解しています。侵略の歴史を否定し、嫌韓の演出を進める日本の現政権に向き合うことが確かに必要と思います。と同時に、旧約の王国分裂時代に主の目にかなう王と悪事を行う王が次々と交替し、治世が揺らされ、民が翻弄される中でも主を信じる預言者たちが繋いできたバトンを日韓の教会が受け継いでいることを思いました。揺り返しの中で政府がどんな状態でも、また内に多様な意見があっても、日韓の教会がとこしえに揺るがない同じ基の上に据えられ、一つとなり、神と人に仕える喜びの中を歩むことができる共同体なのだと感じられたシンポジウムでした。

DMZ生態平和ツアー

シンポジウムの翌日は、平和巡礼のバスツアーでした。非武装地帯(DMZ)に沿って韓国側に設置された民間人統制区域の自然の中をDMZ生態研究所長キム・スンホ先生の案内で散策しました。民間人統制区域内に入るには事前申請が必要で、検問所で身分証の確認があり、限られたルートしか通行できません。皮肉なことだけれどDMZがあるゆえに手つかずの自然が残り、季節ごとに渡り鳥が飛来し、豊かな生態系が保たれてきたと生態研究所長は言います。自然が守られた一方、そこに生きる人々の生活には大きな制約が課せられ、自分の土地であっても滞在時間が限られていました。橋のたもとで原始林を眺め、説明を聞く私たちの横を「急いでいるから、道を開けて!」と叫ぶ農婦を乗せた一台の軽トラックが通り過ぎました。DMZの北側に親族がいるのでしょうか、様々な制約にもかかわらずこの地にとどまり、自由に行き来ができる日を待ち望んでいる方々の望郷の念と、生活の労苦は計り知れません。戦争によって分断され、裂かれた家族があるかたわら、経済開発による破壊を免れた自然があることに、人間の営みとは何なのだろうと考えさせられました。

彼らは剣を打ち直して鋤とし、
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣をあげず、
もはや戦うことを学ばない。

イザヤ2.4

イムジン河を眼下に北朝鮮をのぞむ丘で捧げられたごミサで、韓日両語で読まれたこの御言葉が暗闇の灯火となり、主の眼差しは確かにこの地、この世界に注がれ、平和の計画が用意されていると励ましを受けました。人間の営みから戦を退けることができるのは、ただ神のみ。そのみもとで一緒に祈り、活動する韓日の仲間が与えられたこと、この祈りと行動の輪に加わる人、特に若者を増やすにはどうしたらよいかと山道を歩きながら韓国の若い参加者と語り合えたことも大きな恵みでした。

最終日の分かち合い

帰途につく前のわずかな時間、日本からの参加者の間で分かち合いの時を持ちました。在日韓国人として参加した一人の方が、プログラムの中での発言に傷つき、憤りを覚えたことを打ち明け、また「和解」という言葉が時に暴力性をはらむことをお伝えくださいました。論文「和解という名の暴力」(徐京植『植民地主義の暴力』、高文研、2010年より)に触れながら、謝罪なしに和解を求めるのは、被害者の苦悩を脇に置き、無理やり歩み寄らせ、赦すことを強要する暴力行為に等しいという指摘にハッとさせられました。前職で政府開発援助に携わる中で、当事者の思いに向き合う以前に、和解や平和構築という言葉を軽々しく使ってきた自分を省みました。また日韓の狭間で苦しみ続けてきた在日の方々に、赦しを乞わねばならないのに、国のフィルターがかかる謝罪や平和の議論ではどうしても、国と国の狭間にある在日の方々の存在を見落としがちであることにも気づかされました。

日韓関係とその狭間に置かれた在日朝鮮人・韓国人の歴史の重さ、酷さに私は圧倒されてしまいます。無知、想像力のなさ、視野の狭さゆえに、苦しんできた方々を私の言動がさらに傷つけてしまうのではないかと恐れがあります。けれどこの短い分かち合いのなかで、自分が傷ついたことをストレートに伝えてくださった彼女の発言が対話を切り開く大切さを教えてくれました。人々を分断させようとする悪霊の働きが強まっている今、言葉や行動で相手を傷つけ、また傷つけられることを回避するために、対話をやめ、互いに無関心になっていく脆弱性が増しているように感じます。また全体主義も広がっています。だからこそ、傷つきながらも「対話」を続けることが必要なのだと強く感じた分かち合いでした。

最後に、企画してくださった中井淳神父様、充実のプログラムの運営に携わった韓国側主催者の皆様、そして今回の旅で出会えた皆様、ありがとうございました。

東アジア・太平洋地区のイエズス会が直面する未来
~JCAP拡大協議~

安藤 勇 SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ

2019年10月14日から16日にかけて、イエズス会アジア太平洋協議会(JCAP)中央事務所から招集されたイエズス会員と協働者のグループが、フィリピン・ケソン市にある聖心会の黙想の家に集まりました。JCAPに属する国の代表として話し合うためです。

「専門家」グループによって提案された10の最優先事項を数年前にJCAPが採用して以来、東アジア・太平洋地域だけでなく、世界中で多くの変化が起こりました。その一方で、イエズス会は新総長アルトゥーロ・ソーサ神父のリーダーシップのもと、今後10年間でイエズス会全体を導くための方向づけ(UAPs)を採用しました。すべてを考慮に入れて、JCAPはこの方向づけの光のもと、これまでの2014年から2019年にかけての使徒的計画を見直すことに決めました。

教皇フランシスコによって確認された、イエズス会使徒職全体の4つの方向づけ

A) 霊操および識別を通して神への道を示すこと。
B) 和解と正義のミッションにおいて、貧しい人々、世界から排除された人々、人間としての尊厳が侵害された人々とともに歩むこと。
C) 希望に満ちた未来の創造において若い人々とともに歩むこと。
D) 「ともに暮らす家」(地球)への配慮と世話を協働して行うこと。

JCAPは、地域のJCAPのもとにあるすべてのアクティブなイエズス会の使徒的部門のコーディネーターと、そのコンサルタントメンバーを一緒に招集することにしました。今回はじめて、まったく新しい計画立案を採用するには、55人という多くのイエズス会員と協働者がフィリピンに集まり、そのプロセスを開始しました。プロセスの方法も新しく、将来の決定は、JCAPの執行部を構成する上級長の役割であることが最初から明確にされていました。

ここでは、拡大協議について簡単に報告したいと思います。詳細な報告に興味がある人は、JCAP事務所から送られた14ページの公式報告書が東京の社会司牧センターにあるので、そちらを参照してください。

拡大協議はどのように行われたのか

インプットは最小限で、霊的会話や、祈りと考察のための時間が多く与えられました。挙げられた計画は、来年7月に行われる上級長会議の中で提案されます。UAPsを吸収し、一体となって動くためには、誰もがゆっくりと動かなければならないことが明らかになりました。私たちは神の意志を追い求め、そこでイエスと出会います。おそらく、深い識別には時間が必要でしょう。

JCAPに代表されるすべてのイエズス会の使徒職部門を網羅するために、議論の全プロセスの中で用いられた方法は、すべての様々な活動に適った共通基盤を決定することでした。

この拡大協議は、パンと魚を増やしたイエスの奇跡(マルコ6:30~44)を考察することから始まりました。この聖書の物語は、協議の霊的な焦点となりました。私たちの使徒的使命には、たとえ小さなものであっても、パンや魚を探すためにあたりを見渡す弟子たちのように、何か貢献できるものがあります。弟子たちが見つけたものは十分ではありませんでしたが、結果的に、奇跡そのものはイエスの力から生じたのです。

協議の中心は、上記のUAPsの観点から、私たちの生きている現実の状況を考察することでした。

イエズス会の霊性の光に照らして、協議では私たちの地域で重要な特定の分野を探し、何を強調し、意思決定者である上級長に何を提案するかを決定しました。三日間の協議は主に小グループでの話し合いで、私たちはお互いの声に耳を傾け、全体会に報告し、そして再びグループでそれを分析し、個人的な祈り、霊的会話、識別のためのセッションを行いました。拡大協議は、優れた専門的リーダーシップによって実施されました。

来年2020年のはじめに、JCAPの上級長たちは、拡大協議による前提に基づいて、ともに霊操を行います。その後、同年7月には、今後のJCAP計画を承認してもらえるでしょう。
 

会場にあった、JCAPのイメージである木。
イグナチオの霊性という根から、
多くの芽、様々な部署が生まれ、
一つのJCAPという「木」を形づくっている。
会場にあった、JCAPのイメージである木。
イグナチオの霊性という根から、
多くの芽、様々な部署が生まれ、
一つのJCAPという「木」を形づくっている。

「すべてのいのちを守るため」

~教皇フランシスコ来日と死刑廃止~

柳川 朋毅
イエズス会社会司牧センタースタッフ

2013年3月、第266代ローマ教皇に選出された教皇フランシスコは、第32回目となる外国(イタリアを除く)司牧訪問として、2019年11月19日~23日にタイを、23日~26日に日本を訪れました。アジアに位置するタイも日本も、どちらも社会の中でカトリック(キリスト教)が圧倒的なマイノリティの国ですし、どちらの国にも死刑が存在しています。もっとも、死刑の実際の執行ということに関しては、毎年のように複数人を処刑(絞首刑)している日本と比べ、タイではかなり緩やかな運用がなされています。2018年6月にタイで行われた処刑(薬物注射)が、実に9年ぶり(!)の執行だったという事実からも、その違いがうかがえます。

今回の司牧訪問に際して、かねてより死刑廃止を強く国際社会に対して訴えてきた教皇フランシスコが、未だ死刑を存置しているタイや日本でも死刑廃止に言及するのではないか、またカトリック信者(1984年のクリスマスイブに獄中で受洗)である確定死刑囚・袴田巖さんとの謁見が行われるのではないかということが事前に大きな注目を集めました。来日テーマに「PROTECT ALL LIFE ~すべてのいのちを守るため」という言葉が選ばれたこと、また教皇が長崎で捧げるミサは「王であるキリスト」の祭日のミサであることなどからも、教皇が死刑廃止に向けた何らかのアクションを取ってくれるのではないかと大いに期待をしていました。カトリック教会が守ろうとしている「すべてのいのち」には当然、「死刑囚のいのち」も含まれているでしょうし、C年の「王であるキリスト」の祭日のミサでは、十字架上のイエスが死刑囚に対し、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束する福音箇所(ルカ23章35-43節)が朗読されるからです。

けれども、結果的には、死刑廃止に関する公の直接的言及も、袴田巖さんとの謁見も実現しませんでした。それでも、袴田さんが東京ドームで行われた教皇ミサに招かれて参加できたこと、教皇が安倍首相との会談で死刑を含む諸問題について議論したことなどが明らかになっています。教皇フランシスコがローマに帰る飛行機の中で語ったように、私たちは明らかに道徳的ではない死刑と「少しずつ(a poco a poco)」闘っていかなければなりません。「すべてのいのちを守るため」に、『カテキズム』をも改訂し、カトリック教会は「全世界で死刑が廃止されるために意を決して努力する」(2267番)と誓った教皇の想いに応えながら。